suzunari’s blog

大学生ののんびりブログです。

3.11になって

 はじめに

 1ヶ月ぶりです! こんにちは、なんです。そういえばどうしていきなりなんと名乗っているのか全く言っていなかったので言うと、昔ラジオにハガキやメールを投稿していたときに使っていた名前だからです。ちなみにnonno(女性雑誌)をもじってnannoにして、面倒だからなんになりました。インドのナンが好きなのもあります笑。

 今日は読書まとめがまだ仕上がっていないので、3月11日の震災のことを記録しておこうと思います。真面目です。

 

 思い出せなくなる日

 今まで日記や文章にすら書いたことがなかった震災のことをどうして書こうと思ったかと言うと、単純に言って忘れてしまいそうだからです。自分は東日本大震災の時はまだ小学生で、あの頃の色々なことは少しずつ記憶が朧げになってきているし、何より「怖かったから思い出したくない」と言う防衛本能的なものが働いている気がしています。それは自分が直接的な被害を受けていないからなのかどうかはわかりません。

 

 ↓記憶だけで書いています

 地震があったのは午後で、その日は学校の年度末発表会があった。式が終わった後に教室にいて、これから先生の話が始まるところだったが、先生は確かまだ教室に戻っていなかった。大きく揺れた時、皆案外すぐに机の下に隠れたような気がする。机の金属の足を持って、校内放送が流れていた。校内放送で「震源地は宮城県北部」と言った時の衝撃だけが今でも物凄く残っている。自分は1年前まで東北地方に住んでいて、小学生でも宮城県北部が自分の元いた場所に非常に近いことがわかったからだ。クラスの中で私一人だけが怯えて、パニックになったように感じて、「宮城県北部って言ったの!?」と半泣きで隣の男の子に言った気がする。隣の子は多分自分を見て驚いていた。

 その後は先生がやってきて、皆で校庭に避難して、発表会の日だったから保護者が幸いにも近くにいて祖母や母(どちらか忘れた)に連れられて家に帰った。家に帰ってから津波の映像を見たかもしれないが、いつが最初だったかはあまり覚えていない。当初は今のようにテロップなんかはなくただ映像が流されていて、波というよりは黒い塊が家や車や大きな船を押し流していた。確か3日後や1週間くらいまでは屋根の上に生きている人がいて、自衛隊のヘリが助けていた。テレビの映像は、怖いという感情さえ湧かなかったように思う。ただ自分の住んでいた場所は内陸部だったので、津波の被害にはあわなくてきっとほっとした気がする。

 

 次の日か数日後には、街ではガソリンスタンドに長蛇の列ができて、スーパーからトイレットペーパーや備蓄用の水が無くなった。他にも買い占めはあったかもしれないが。地震の影響でデマが流通して、保護者の携帯に近所のガス工場?が爆発したかもしれないとメールが来ていた。(実際は爆発していなかった)しばらくして学校の先生に「買い占めはいけない」と言われたが「買い占めたいと思うのはしょうがないことでもある」と母親が言っていた気がする。

 リビングで見たテレビで、原発が何度か爆発した。原発の存在自体おそらくその時初めて知った。何号機もあってよく理解していなかったが、中の危険なものが飛び散るように爆発したのだ、と思っていた。メルトダウンの仕組みが何度もテレビで放送されて、金属棒が刺さった容器や冷却の話をしていた。爆発の次の日あたりは雨が降って、風が自分達の地域に流れてきたので親に言われて雨ガッパを着て登校した。家に帰ったら玄関先で雨ガッパを脱がされて捨てられた。これで放射能が防げるのかな?と疑問に思った。しばらくして、春の運動会の組体操は中止になった。素足で土を触るのが危険かもしれなかったから。あまり残念に思わなかったけれど、遊ぶ時土に触っている気がして意味がない気もした。みんなが濃度計?を買って、シーボルトだかなんだかで放射能の濃度を測っていた。高かったらどうしていたのだろう。

 東北に住む友達に手紙を送ったらしばらくして返ってきた。「ガソリンスタンドがとても混んでいるのは家も同じで、小学校が壊れてしまったけれど元気だよ」とあった。嬉しかった。テレビではよくACのCMが流れていて、よく家族と真似をして遊んだ。

 

 その後は、被災地の人が疎開のように各地に避難したり、原発の事故の後処理で所長さんが亡くなってしまったりした。しばらくして夏頃に計画停電があったが、なぜか自分の家は時間通りに停電が来なくて不思議だった。あの春は今のようにあらゆるものが自粛になって、それに文句どころか何も言ってはいけないような空気だった。あまりにも亡くなった人が多すぎて、あの一度の出来事でこんなに多くの人が死んでしまったのが今でも実感できない。そういえばよく新聞にいろんな人の名前が載っていた。

 

 震災の時は絆という言葉が流行った。各国から寄付や支援があった。

 

 一番不思議に思うのは、当時受動的に見ていた津波の映像が、今ではほとんど見れないことだった(精神的に)。濁流の中に呑まれて亡くなっていく人が映るかもしれないと思うと怖くなった。自分は映画が好きだけれど、震災に関するものはほぼ見ていない。圧倒的な音量や映像で、思い知らされるのが怖かった。津波てんでんこの教訓で助かった命があるように、風化させてはいけないものだと頭ではわかっていても、個人としては忘れてしまいたい気持ちも確かにあるのだ。だから何にも書かなかったし話さなかった。

 語っていく人はとてもすごいと思う。戦争体験の語り部の方のことも、今までよりさらに凄いと思った。何度も口に出すことは、その記憶をより自分に刻みつけていくようなものではないか。悪い夢を何度も人に話してしまうと、より忘れられなくなるのと同じように。自分には直接的な被害がなかったから、次世代の命を守ることよりも自分の精神を守りたい気持ちの方が強くてできる限り思い出さないようにしていた。自分がどうなるかわからない恐怖や、大切な人がどんな状況にあるのかわからない不安、テレビの向こうで流されて燃えていく町、そんなもの。

 

 

 

おわりに

 年下の人と話をすると、皆想像よりずっと震災のことを覚えていません。どうすればいいか自分にはまだ答えが出せないですが、区切りとしてここに記憶を記しておきたいと思いました。ただ一つ言えるのは、もう2度とあんなことが起きて欲しくないということです。

 同時に、感染症も、今起きている戦争も、一刻も早くおさまってほしいと願っています。

 

 

 ありがとうございました。

 

 ちなみに12時ごろ書いたので日付が変わってしまいました。すみません、、。