suzunari’s blog

大学生ののんびりブログです。

冬の読書感想

初めに

 お久しぶりです。一ヶ月に一つ書く予定のブログがぎりぎり二月最後の日に書くことになってしまいました、、。私は春休みに入ったのですが色々と忙しくて(言い訳笑)今回は一月に読み終わったアラン『幸福論』の感想をつらつらと書くのと、その他最近ほやほやと心に浮かんでいたことを書いていこうと思います。近頃はやっと空気が暖かくなってきていい季節ですね。この暖かさのために冬があるのでは。笑

 それではアランの『幸福論』から色々抜粋しながら行きたいと思います!よってネタバレと言えばネタバレです。

 

本紹介

 まず、さっきから言っているアランの『幸福論』ってなんだろうというとこからいきます〜。これは1925年にアラン(本名エミール・シャルティエ)によって書かれた散文集です。元々新聞に掲載されていた「プロポ」という短い章ごとの文章をまとめたものです。全体構成はその短いプロポが93個並んでいる感じです。『幸福論』という堅そうな名前ですが何かを論じているというよりは日記調で、私は寝る前に安眠用に読んでいました笑。難しいものはそのままよくわからないなぁと思いながら眠くなるし、響くものは響くので、きっとまた次に読んだときには違うところが深く刺さったり救われたりするのかもなと思いました。

 自分がどうしてこの本の存在を知ったのかはあまり覚えていないのですが、おそらくそこそこ有名な本らしいです。確か家族についての記述がどこかの記事に載っていて興味をもったのだと思います。感情が高ぶった時にときたま新刊の一気買いをするのですがその時に買いました!笑 本の表紙の雰囲気に対して想像するよりずっと手軽に読めて、 約100年という時代の違いも面白いなぁ〜と思いながら読んでいました。だいぶおすすめです。

 

印象深かったところ(現時点で)

 ここでは全体を通して私が、現時点で印象深かったところを書いていきますー。本を読んだ時って読む度に違うところが気になったり昔の感覚を呼び起こしたりするところがすごいところですよね。これは小説でもそうじゃなくても結構あると思っていて、そこが良いなぁとよく思います。新書系だと大学受験期は森毅さんの『数学受験術指南』にハマりましたね〜。ものすごく参考になりました。

 話を元に戻して、『幸福論』全体では結構似た内容が繰り返されているようにも思い、そこが読む前に私が考えていたものと違うのが多く面白かったです。ちなみに以下に羅列するのはまあまあ私の解釈が入っているので、気になった方は本物を読むことを推します笑。

 

 ・憂鬱なときはとりあえず体を動かして、体操する、遠くをみる

 ・想像力の生み出す恐怖や不安は強力であり人は悲劇を演じるべきではない

 ・無関心な人々の中で生きることは心地よい

 ・礼儀作法は周りを上機嫌にさせ、自身を幸福にする

 ・人は自然には悲観主義に向かう、幸福は自己意志を持ってなろうと思わなければなれない

 

 大体はこんな感じです!書きながらパラパラと読み返してみるとやっぱり一つ一つが深く興味深いものに感じてくるので本当に近頃一番人に勧めたい本です(何回言うのか笑)

 最初の憂鬱なときは体を動かすべき、と言うのは何回か言っていて、椅子に座るなど体勢を変えるとかも入っているようでした。憂鬱さの原因や精神の方に入り込んでしまうと抜けられなくなってしまうから、一度頭を違う現実的なことにシフトさせることは確かに重要な気がする…!と思いました。課題や勉強をやっている最中とかでも「全然終わらない、もう無理なんじゃないか、私はどうして毎回こんな、、」とか思い始めると本格的に全部手につかなくなるので私もそう言うときは歯磨きとかしてました笑。歯を一本一本丁寧に磨くことだけを考え続けるとスッキリします。

 次の負の想像力の強さについてはとても納得しましたし、現在のコロナ禍にもよく思い当たる節がありますね。実際の痛みよりも自分が考えたものの方が精神的に痛いこと(事故とか)や、ネガティブな想像は自分でも気づかないうちに自身を傷つけているのかも、、と思いました。本の中ではそのことを「瞬間的な自殺」だったかな?そんな風に言っていました。悲劇を演じるべきではない、というのも個人的にはぐさっときました。悲劇ってある意味綺麗というか切なく見えるので無意識的にしろ意識的にしろ浸るタイプの人っていると思うのですが(私はその気配があるような自覚があります笑)、あと最近の逆マウントって言うのかな不幸マウントも少し近いなと思いました。不幸度合いを比べて、自分の悲劇性を誇張するとそのうちそれが本当に自身の精神や気分を害し始めるようなのは双方にとって良くないなあと感じました。不幸比べはまさにコロナ禍で頻出しているのでは、、。

 3つめの無関心な人、と言うのは家族についての記述で出てきました。要は過保護で周りからどんな些細なことも大袈裟に心配される状況にいる人は、本当に具合が悪くなってしまうから治したいのなら自分に無関心な人々の中にいるべきだ、という感じです。まあ実際の病気とかアレルギーとかはこのような考えでは治らない場合も勿論ある(ありまくりかも笑)とも思いましたが、そこは100年前ということを考慮してスルーしたいと思います笑。でも無関心な人の中、例えば街中のカフェや雑踏、大人数のざわざわとした教室や静かな図書館など、家族や同居人以外の人に囲まれる場所というのは自分が思っているより精神上大事だったんだなというのはコロナを通してとても思いました。コロナに関係なくても、育児で家にずっといることなどを考えると「社会の中に輪郭を持って自分が存在している」という感覚を持てるように無関心な人々の中に生きる時間は必ず持つべきだなぁと感じました。

 4つめの礼儀作法については、個人的には意外に思いました。なんとなく礼儀作法というと宮廷とかのよく分からないもの、という堅いイメージだったので「時間の無駄、怠惰」みたいな批判が多そうな印象だったからです。本の中では処世術は中々痛烈に批判していたような気がしますが、礼儀作法は1の体操に近く、関わりの円滑さや微笑みによって相手を上機嫌にさせることで巡り巡って自身が幸福になることが書かれていました。これは3つめにも関わりますが、(無関心な人同士では礼儀作法がありあまり相手をわざわざ不機嫌にはさせない)だからこそ家族間でも礼儀作法は重要であり、「親しき中にも礼儀あり」なのだろうと思いました。

 最後!「人は自然にしていれば悲観主義に向かい、幸福は自己意志を持たなければなれない」は良いなぁと思いました。自然にしていると悲観主義に向かってしまうのは2つめの負の想像力とかによるものでもあるかな、と思います。負の想像力は危険察知とかにも使えるだろうし完全に駄目だとは思いませんがやりすぎると良くないですよね。最近は、なんだろう世間全体で幸福のハードルが下がっているように感じるのですが、この台詞はそれに反抗している感じが好きです。「生きているだけで十分幸福」、「勉強させてもらえるだけ幸せ」とか謙虚さは良いかもしれないけれどそういう相対的な幸福は幸福ではないのではないか、という風に思いました。それはむしろ不幸比べに近づいていっているし、幸福は比べるものではなく自分で感じるものじゃないかな、、と真面目に思いました。まあ私は「人生を良くしよう!」とか「幸福になろう!」という台詞もあまり好きじゃないのですが、、。ただ「悲観主義は自然」と言われると自分は自然に流されているだけな気がして、それならやはり幸福を欲する自己意志を持つべきなのかもしれないと思い始めました。この本の中では『幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ。』といわれていて、自分が幸福を欲する意志を持って幸福になることは周りにも幸福を広げることになるのかなと少し思いました。

 

おわりに

 『幸福論』だけあって感想がただただ真面目なものになってしまいました笑。でも中身は本当に気軽で(私には難しいものもあったけど)今後も何度も手に取るだろうなぁという本なので心からお勧めします。多分これをいうのは3回目です笑。

 冒頭で言った、「その他最近ほやほやと心に浮かんだもの」を全く書けなかったのでここに残しておきます。次回はここら辺を書こうかな、、。

 ・スマホ依存にみんなが悩んでいる話

 ・人生で後悔したことはなんだろう、と考えてほぼなかったのだけれど後悔すらできていないで諦観があるのかも…。「一生にあと何回後悔できるのだろう」のむぎ焼酎のCMは深いなぁ。

 の二つです。いつも本当に何を考えているのやら。とりあえず、三月も頑張ろうと思います。

 

 

 

ありがとうございました。

 

コロナの収束を祈願。